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No 534
Date 2003・07・30・Wed
【本】『文豪の古典力』島内景二、文春新書、2002年。考古学には「複合遺跡」と呼ばれるものがある。
「異なった時代の遺構が複合して発見される遺跡」のことで、縄文・弥生・大和・奈良・平安・・・など様々な時代の先人たちの生活したあとが重なって発見される遺跡を言うのだそうだ。 著者によれば、文芸作品も「複合遺跡」の性格を帯びていて、例えば夏目漱石や森鴎外は漢詩文と外国語に詳しかったから、彼らの生きた明治時代の影響だけでなく、中国と西洋の文化(古典から近代まで)も作品の中に反映しているのだそうだ。しかも、彼らは日本の古典知識も有していたから、奈良時代から江戸時代までの「古典」も影響もある。近代文学を複合遺跡に例えるのは、こういう理由からだそうだ。なるほど、上手い比喩だと思う。 近代の文豪と言われた夏目漱石も森鴎外も、我が国の古典を吸収し、それと格闘することで自らの世界を作ることができた。中でも、『源氏物語』は究極の古典として君臨し続けていた。 樋口一葉は、源氏物語のヒロインたちと自分を重ねあわせるように名作を世に送り出し、尾崎紅葉は冷めた目で源氏物語を捉え、それを作品に反映させた。 明治・・・西洋文化がどっと押し寄せ、国を挙げて近代化を目指した時代、外国語能力もある文豪たちは、西洋の書物以上に古典を深く理解し、向き合い、葛藤を重ねていった。しかし、明治中期から大正にかけての「言文一致」が日本語の断絶を生み、「古典力」を失っていく時代でもあったそうだ。 著者の言う「古典のDNA」は、よくわかる。 私も「十月」よりも「神無月」の方に趣を感じるし、天の橋立を観光すれば「まだふみもみず・・・」なんて口ずさみたくなる。きれいな言葉、悲しい言葉は魂を持っていて、単なる単語としてではなく、和歌や文学の内容そのもの、それを生み出した文化や歴史の重みがあると思う。 著者は、与謝野晶子が『源氏物語』の口語訳を書き、古典=(口語訳がなければ)読めないものという図式をつくってしまった。そして、「源氏詞」を現代語に直してしまった時点で、言葉の輝きや古典の心を失ってしまったという。 なるほど、では私が与謝野晶子、円地文子など『源氏物語』の口語訳に悉く挫折したのにも理由があったことになるのかな?(<開き直り?) そういえば、少し前にNHKの教育番組で百人一首を口語訳して親しみ安さをアピールするシリーズがあったけど(しかも、佐佐木幸綱氏まで登場して)、ものすごく興ざめだったっけ。 古典の勉強は、単に古い言葉を覚えるだけでなく、自分の「魂のDNA」に気づくことだという著者の意見には賛成できる。だからといって、古典が読まれないこと=日本文化の最良の遺伝子の消滅=人類の文化の凋落かどうか・・・まあ、でも確かにそういう部分も多いのかもなあ。過去の遺産との格闘なしに、血や肉となる新しいものは創造できないってことは研究者には自明のものだし。(どこかで流行っている新しいものを取り入れる=借りてくるだけじゃ、いずれ廃れて別の何かを捜さなければならなくなるから) 明治の文豪の作品のどういう部分に『源氏物語』の影響があり、それが文豪たちそれぞれに違った部分の影響があると説明されると、小説にあまり詳しくない私でもなるほどと思う。そして、実際に明治の小説や古典を原文で読んでみたくなった。 与謝野晶子の口語訳のどこが良くて、どこが間違っているのか、なぜ1ページに誤訳が2,3もあるのかについての指摘と評価は、『源氏物語』研究の専門家ならでは。とてもおもしろかった。
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